アートは高尚な趣味でしょうか?
単なる趣味や娯楽の域をでないのでしょうか?
1.変化する価値観
ネットサービスは、あらゆるものを「早く」、「解決」できることを目標にしています。
その結果「遅く」、「わからない」ものに価値はない。
と思われるようになったようです。
ワンクリックでモノが届き、遠く離れた人ともパソコン経由で面会できる便利な世の中になりました。
「早い、安い、うまい」は牛丼店の代名詞であり、パソコンは1000分の1秒の単位を争っています。
かつて、図書館に行き辞書や書籍を探して、目当ての資料にたどり着くのに、どれほどの時間がかかったでしょう。
今では、1秒にも満たない時間でパソコンの中に無数の資料を見つけることができます。
「早く」、「わかる」ことは、社会的な価値として定着し、あらゆる競争の目標にもなってきました。
社会では、いつの間にか「早く」、「わかる」ことが善であり、対極にある「遅く」、「わからない」は、悪という価値観が形成されたように思います。
遅く、手間がかかり、わからないことは悪い状態であり、その状態を回避したい、あるいは否定として
「めんどくさい」
とつぶやいてしまうようです。
2.知識と体験
本を読めば知識を得ることができます。
知識は生きていく上で、大切なもののひとつです。
しかし、より良く生きていくには、それだけでは足らないかもしれません。
美術館で対話型鑑賞を初めて体験した時の記憶は、鮮明に残っています。
ファシリテータに促されるままに、意見を述べたり、参加者の意見を聞いたりしていると、一人で見ている時とは、まったく違う絵に見えてくる不思議さ、キャンバスの中に入り込んだような疑似体験。
そのどれもが、学校の美術の授業では経験したことがないものでした。
ファシリテータが参加者を誘導しない対話型鑑賞には、批判的な意見もあります。
「鑑賞者が想像を述べあっても、“正解”にはたどり着けない」
「教育には“正解”へと導く道案内が必要」1
というのがその主な主張です。
社会学や史学、文学とも深く関係する美術作品は「正しく」、「理解」しなければ、学ぶ意味がありません。
そのためには“道案内”も必要であり、主張は納得できるものです。
しかし、筆者が学生時代に美術から遠ざかった理由はこの点にありました。
『ゲルニカ』から沸き起こる感情は、教員の解説とはほど遠く、聞けば聞くほど混乱し「わからないもの」となりました。
試験のために“正解”を知識として暗記することはできます。
しかし、数式のように誰もが納得できるものならともかく、自由であるはずの感情まで押し付けられると感じた筆者は、美術の授業から心が離れていきました。
体験を重視し、時間をかけ「わからない」ことにも向き合う対話型鑑賞は、社会で無価値と思われている「遅い」そして「わからない」ことに関心を向けるきっかけになったように思います。
3.答えのない問題
人は、答えを求めて検索します。
それでも答えは見つからない。
そんな時、あなたならどうしますか?
我々の脳は、不安なものや、わからないものを嫌い、わかろうとする性質があるそうです。
確かに、不可思議なものや、理解できないもの、顔は覚えているのに思い出せない人の名前、など、モヤモヤした気持ちは決して気分のいいものではありません。
記憶のジグソーパズルがピタッと合った時、なんとも言えない爽快感を覚えます。
このような脳の性質が探究心となって、あらゆる学問を発展させてきました。
学問の世界はともかく、我々の回りを見渡すと、答えのない問題は山積しています。
職場の人間関係、育児や介護と仕事の両立、将来への不安、お金のこと、世界では、温暖化や紛争、貧困など、どれも容易には解決することはできない問題ばかりです。
個人の問題も世界の問題も、極めて深刻な問題でありながら、パズルの一片は見つからず、そもそもパズルの一片があるのかさえわかりません。
学校教育では、誰もが納得する方法で、明確な答えを導き出す能力の獲得が目標とされます。
我々は答えを出す訓練を受け、問題に向き合ったときに、何らかの答えを導き出すことには慣れています。
しかし、答えのない問題に向き合う方法は知りません。
最も簡単で多くの人が経験しているのは、その問題から目を背けること、問題をなかったことにしてしまう方法ではないでしょうか。
4.負の能力
何かをできること、何かをわかること。
それを能力というようです。
では、できないこと、わからないことは、悪なのでしょうか。
ネガティブ・ケイパビリティ2という言葉があります。
「負の能力」または「陰性能力」と訳されます。
英国の詩人ジョン・キーツが唱えた概念だそうです。
小説家であり精神科医でもある帚木蓬生(ははきぎ ほうせい)の著書3にはこうありました。
私たちは「能力」と言えば、才能や才覚、物事の処理能力を想像します。
学校教育や職業教育が不断に追求し、目的としているのもこの能力です。
問題が生じれば、的確かつ迅速に対処する能力が養成されます。
ネガティブ・ケイパビリティは、その裏返しの能力です。
論理を離れた、どうにも決められない、宙ぶらりんの状態を回避せず、耐え抜く能力です。
帚木蓬生/著 『ネガティブ・ケイパビリティ』朝日新聞出版 2017年 p.9
医師でもある帚木は、難局に直面するたび、ネガティブ・ケイパビリティという言葉を思い出すことで、逃げ出さず、その場に居続けることができた、命の恩人のようなことばだと語っています。
考え続けることは、苦しいことです。
しかし、だからこそ、この苦しさに耐える能力が重要だと帚木は言います。
答えのない問題に「めんどくさい」、「意味不明」というレッテルを貼り、忘却の彼方に追いやる方法もあります。
悩んでも仕方がないのだから、それ以上考えることをやめ前に進もう、というポジティブなイメージがあります。
しかし、その方法は時として「排除」や、「見て見ぬふり」を意味していないでしょうか。
「わからないこと」を排除、否定、無視する態度は、自己否定、いじめや、暴力、暴言、差別や偏見の遠因になっていないでしょうか。
そうであるならば、ネガティブ・ケイパビリティはこれらの解消や低減にも、重要な役割を果たしてくれそうです。
5.隠れた価値
わからないものをつくり続ける作家がいます。
彼らはなぜ、つくり続けるのでしょうか。
自分の中に生じた小さく硬い棘のような違和の感覚。
それをどうしても見過ごせない人が誰に頼まれたわけでもなく何かを作り始める。
(中略)そのような止むに止まれぬ無償の行為とそこに賭けられた闇雲なエネルギーが世界の表面に残した痕跡を、他に名付けようもなく「アート」というのです。
大野左紀子:「アートヒステリー」河出書房2012 p.202
震災の地に移り住み、その地の記憶をことばと写真で紡ぎ直し続ける作家がいます。4
ただひたすらに鉛筆で新聞を塗りつぶす作家がいます。5
取り壊される建物の廃材でウクレレを造り保存する作家がいます。6
途方も無い時間と手間をかける作品は、どれも効率化とは無縁で、“遅く”、“わからない”ものです。
しかし、その作品は強烈に見る者の胸を打ちます。
美術家の川俣正は、現代美術を社会に実装する意味を語る文脈において
「アートが社会的に何の役にも立たないことにおいてのみ、社会に役立つという逆説的な意味合いから、それを引き受けつつ、もう少し実践的な場でその存在のリアリティを確かめる方向にきているのではないかと思う」
川俣 正/著 『アートレス』 フィルムアート社 2006年 p.186
無駄や無意味と思われるものであっても、社会に必要であると言っているようです。
遅い、わからない、めんどくさい、に性急に答えを求めることなく、
否定せず、排除もしない態度は、
アートが教えてくれる最も重要なことのように思われます。
<参考文献>
- 立原慶一/著 「対話型鑑賞法の成立とその諸相」
『美術教育学の歴史から』 美術科教育学会 2019年 p.151 ↩︎ - Margulies, A. (1984). Toward empathy: The uses of wonder.
The American Journal of Psychiatry, 141(9), 1025–1033
https://doi.org/10.1176/ajp.141.9.1025 ↩︎ - 帚木蓬生/著 『ネガティブ・ケイパビリティ』朝日新聞出版 2017年 p.9 ↩︎
- 小森はるか+瀬尾夏美 http://komori-seo.main.jp/blog/aboutus/ ↩︎
- 金沢寿美 https://www.sumi-kanazawa.com/ ↩︎
- 伊達伸明 https://kyoto-artbox.jp/dialogue/10786/ ↩︎
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