本稿は、美術による学び研究会 会報 No,422に掲載したものを加筆修正したものです。
あらゆる情報やモノが手軽に入手できる時代になりました。同時に、ちょっとした手間と時間を要することに遭遇すると、「めんどくさい」とつぶやいてしまうことも増えたように感じます。
本稿では、テレビやインターネットでも氾濫する「めんどくさい」とアートの関係について考察してみます。
便利な時代
ワンクリックでモノが届き、遠く離れた人ともパソコン経由で面会できる便利な世の中になりました。「早い、安い、うまい」は牛丼店の代名詞であり、パソコンは1000分の1秒の単位を争っています。
かつて、図書館に行き辞書や書籍を探して、目当ての資料にたどり着くのに、どれほどの時間がかかったでしょう。今では、1秒にも満たない時間でパソコンの中に無数の資料を見つけることができます。
「早く」、「わかる」ことは、社会的な価値として定着し、あらゆる競争の目標にもなってきました。社会では、いつの間にか「早く」、「わかる」ことが善であり、対極にある「遅く」、「わからない」は、悪という価値観が形成されたように思います。
遅く、手間がかかり、わからないことは悪い状態であり、その状態を回避したい、あるいは否定することばとして「めんどくさい」とつぶやいてしまうようです。
知識と体験
対話型鑑賞VTS(Visual Thinking Strategies)を初めて体験した時の記憶は、鮮明に残っています。
ファシリテータに促されるままに、意見を述べたり、参加者の意見を聞いたりしていると、一人で見ている時とは、まったく違う絵に見えてくる不思議さ、キャンバスの中に入り込んだような疑似体験。そのどれもが、学校の美術の授業では経験したことがないものでした。
ファシリテータが参加者を誘導しないVTSには、批判的な意見もあります。「鑑賞者が想像を述べあっても、“正解”にはたどり着けない。教育には“正解”へと導く道案内が必要」というのがその主な主張1です。社会学や史学、文学とも深く関係する美術作品は「正しく」、「理解」しなければ、学ぶ意味がありません。そのためには“道案内”も必要であり、主張は納得できるものです。
しかし、筆者が中学生時代に美術から遠ざかった理由はこの点にありました。
『ゲルニカ』から沸き起こる感情は、教員の解説とはほど遠く、聞けば聞くほど混乱し「わからないもの」となりました。
試験のために“正解”を知識として暗記することはできます。それが数式のように誰もが納得できるものならともかく、自由であるはずの感情まで押し付けられると感じた筆者は、美術の授業から心が離れていきました。
体験を重視し、時間をかけ「わからない」ことにも向き合うVTSは、社会で無価値と思われている「遅い」そして「わからない」ことに関心を向けるきっかけになったように思います。
答えのない問題
我々の脳は、不安なものや、わからないものを嫌い、わかろうとする性質があるそうです。
確かに、不可思議なものや、理解できないもの、顔は覚えているのに思い出せない人の名前、など、モヤモヤした気持ちは決して気分のいいものではありません。
記憶のジグソーパズルがピタッと合った時、なんとも言えない爽快感を覚えます。このような脳の性質が探究心となって、あらゆる学問を発展させてきました。
学問の世界はともかく、我々の回りを見渡すと、答えのない問題は山積しています。
身近なところでは、職場の人間関係、育児や介護と仕事の両立、将来への不安、世界に目を向けると、温暖化や紛争、貧困など、どれも容易には解決することはできない問題ばかりです。
個人の問題も世界の問題も、極めて深刻な問題でありながら、パズルの一片は見つからず、そもそもパズルの一片があるのかさえわかりません。
学校教育では、誰もが納得する方法で、明確な答えを導き出す能力の獲得が目標とされます。我々は答えを出す訓練を受け、問題に向き合ったときに、何らかの答えを導き出すことには慣れています。
そのため、答えのない問題に向き合ったときの対処には不慣れです。
最も簡単で多くの人が経験しているのは、その問題から目を背けること、問題をなかったことにしてしまう方法ではないでしょうか。
負の能力
ネガティブ・ケイパビリティという言葉があります。「負の能力」または「陰性能力」と訳されます。英国の詩人ジョン・キーツが唱えた概念2だそうです。
この言葉は、フェイスブックで紹介されていた書籍で知りました。小説家であり精神科医でもある帚木蓬生(ははきぎ ほうせい)の著書 にはこうありました。
私たちは「能力」と言えば、才能や才覚、物事の処理能力を想像します。学校教育や職業教育が不断に追求し、目的としているのもこの能力です。問題が生じれば、的確かつ迅速に対処する能力が養成されます。ネガティブ・ケイパビリティは、その裏返しの能力です。論理を離れた、どうにも決められない、宙ぶらりんの状態を回避せず、耐え抜く能力です。
帚木蓬生『ネガティブ・ケイパビリティ』朝日新聞出版 2017年 p.9
帚木は、難局に直面するたび、ネガティブ・ケイパビリティという言葉を思い出すことで、逃げ出さず、その場に居続けることができた、命の恩人のようなことばだと語っています。
考え続けることは、苦しいことです。しかし、だからこそ、この苦しさに耐える能力が重要だと帚木は指摘しています。
答えのない問題に「めんどくさい」、「意味不明」というレッテルを貼り、忘却の彼方に追いやる方法もあります。
悩んでも仕方がないのだから、それ以上考えることをやめ前に進もう、というポジティブなイメージがあります。
しかし、その方法は時として「排除」を意味します。
「わからないこと」を排除、否定、無視する態度は、いじめや、暴力、暴言、差別や偏見の遠因になっていないでしょうか。そうであるならば、ネガティブ・ケイパビリティはこれらの解消や低減にも、重要な役割を果たしてくれそうです。
隠れた価値
震災の地に移り住み、その地の記憶をことばと写真で紡ぎ直し続ける作家3、ひたすら鉛筆で新聞を塗りつぶす作家4、取り壊される建物の廃材でウクレレを造り保存する作家5がいます。途方も無い時間と手間をかける作品は、どれも効率化とは無縁で、“遅く”、“わからない” 、“めんどくさい”ものです。しかし、その意味を知ったとき、強烈に見る者の胸を打ちます。
美術家の川俣正は、現代美術を社会に実装する意味を語る文脈において
「アートが社会的に何の役にも立たないことにおいてのみ、社会に役立つという逆説的な意味合いから、それを引き受けつつ、もう少し実践的な場でその存在のリアリティを確かめる方向にきているのではないかと思う」
川俣正/著 『アートレス』フィルムアート社 2006年 p.186
と述べています。
ことばの表面だけをなぞるのは、川俣の意に反しますが、無駄や無意味と思われるものであっても、社会に実装してその真価を確認する必要がある、という意味ではないかと思います。
遅い、わからない、めんどくさい、に性急に答えを求めることなく、否定せず、排除もしない態度は、アートが教えてくれる重要な要素のひとつのように思われます。
中学校を卒業して40年以上が経ちました。戦争や民族のことを理解した今、『ゲルニカ』は何よりも特別な作品として、筆者の胸の内にあります。それでも、まだ作品の真の理解には及んでいないと思います。
最後に、現在ヨーロッパで起きている惨状を予測していたかのような、帚木のことばをご紹介し、結びに替えさせていただきたいと思います。
開戦に至る軌跡を辿るとき、私はそこに為政者のネガティブ・ケイパビリティの欠如を見るのです。どうにもならない宙ぶらりんの状態を耐えることなく、ええいままよ、とばかりに戦争に突入していく、情けない指導者たちの後ろ姿が見えて仕方がありません。
帚木前掲書、p.233
<註記>
- 立原慶一/著 『美術教育学の歴史から』美術科教育学会 2019年 p.151 ↩︎
- Margulies, A. (1984). Toward empathy:
The uses of wonder. The American Journal of Psychiatry, 141(9), 1025–1033 https://doi.org/10.1176/ajp.141.9.1025 ↩︎ - 小森はるか+瀬尾夏美 http://komori-seo.main.jp/blog/aboutus/ ↩︎
- 金沢寿美 https://www.sumi-kanazawa.com/ ↩︎
- 伊達伸明 https://magazine.air-u.kyoto-art.ac.jp/feature/79/ ↩︎