子どもお年寄りにも人気の対話型鑑賞。
ファシリテータの育成や鑑賞ワークショップに積極的な美術館や団体も増えてきたようです。
そんな対話型鑑賞では、どんなことが起きるのでしょう。
ポール・セザンヌという人
ポール・セザンヌ(Paul Cézanne, 1839-1906)。
ゴッホやルノワールと並ぶ人気を誇り、現代絵画の父と評されています。
世界の美術ファンを魅了する巨匠の一人ですが「セザンヌは絵が下手だった」という動画1は再生数70万回に届こうとするほど人気です。
空間は歪み、不正確な陰影、布や木のテーブル、果物の質感はどれも同じように表現されています。
サロンに一度も入選することのなかったセザンヌは、意図的に質感の描き分けや正確な遠近法を用いなかったのではなく、これらの技術を修得していなかった、つまり描けなかった。
そして当時としてはあたりまえの技法を用いずに描く表現が斬新と見做され、時代がセザンヌに追いついた。というのが解説の骨子です。
美術史を振り返ると、確かに当時あまり注目されていなかった作品が後の時代に高く評価される、ということはよくあることです。
しかし、当時下手な画家はいくらでも居たはずです。
ゾラとの交友関係、ピサロとの出会いなどがあったにせよ「時代がセザンヌに追いついた」という理由だけで、これほど多くの人々を魅了し続けるものでしょうか。
ちなみに、山田五郎もセザンヌを評価していないわけではなく「絵が下手だった」と考えることで「セザンヌをより深く理解できる」と述べています。
小説の中のセザンヌ
森美術館の設立に携わり、MoMAに勤務し、現在はアートを題材にした数多くの小説を執筆している人気の作家、原田マハ。
2020年に発行された小説『デトロイト美術館の奇跡』は、財政破綻で売却されそうになったデトロイト市立美術館の作品を市民が守り抜いた、という実話を基にした小説です。
この小説で重要な役割を担う作品が、セザンヌの妻オルタンスを描いた肖像画《画家の夫人》です。
セザンヌ47歳の頃に描かれました。
セザンヌの名が広まるのは、1895年56歳で開催した個展からと言われますので、この作品はその9年前、まだ売れていなかった時代の作品ということになります。
筆者がこの作品を初めて見たときには、動画の影響なのか、不自然に傾いて見えるポーズ、平面的な陰影、雑に描かれた背景、よく読み取れない指の形や服のシワばかりに目が向いてしまいました。
しかし、原田マハの小説で描かれるセザンヌ作品は、技法の上手、下手という次元では語られていません。
作品に秘められたセザンヌと妻の関係性、そしてこの作品に特別な思いを寄せる夫婦の姿を通じて作品の魅力を丁寧に描き出しています。
原田マハは、山田五郎とは全く異なるアプローチでセザンヌ作品を解釈しているようです。
対話型鑑賞のセザンヌ
筆者は、所属する大学の有志で定期的に開催される対話型鑑賞会にファシリテータとして参加しています。
参加者は全員社会人の学部生、毎回約8割は対話型鑑賞未経験、遠隔会議システムを使ったリモートで行います。
いつも題材選びに悩みますが、今回は思い切って《画家の夫人》を使ってみることにしました。
山田五郎と原田マハの異なる解釈。参加者は、どちらの解釈をするか知りたいという個人的な好奇心がありました。
この対話型鑑賞はシンプルな3つの質問「絵の中で何が起こっていますか?」、「どこからそう思いましたか?」、「新しい発見はありますか?」で進行するVTSの手法で行います。
VTSでは、参加者への作品解説は行いません。
先入観なしで、印象や発見を言葉にすることに重点がおかれます。
人物がモチーフの作品の場合、参加者が最初に着目するのは人物の表情です。
今回も最初は表情に関する意見が主でしたが、対話が進むにつれ、参加者の視点は次々に移動していきました。
- 「この人は唇をとがらせている。不満に思いながらここに座っている」
- 「服の襟や肩のあたりの服が乱れている。慌てて座ったように見える」
- 「ポケットが膨らんでいる。きっと何かの用事の途中で急に呼び止められたに違いない」
- 「姿勢が傾いている。長く座っていたくないのでは?」
- 「カーテンのように見える背景は、何かを隠しているように見える。豪華な部屋ではない」
- 「頬が薄っすらと色付いている。カーテンのすみれ色と呼応している」
- 「姿勢や表情からすると、この女性はモデルに不慣れだ」
- 「手の組み方、特に指の組み方が緊張している」
- 「不本意ながら座っている。不機嫌さを表情に出している」
- 「嫌々ながらモデルになっているけど、本当に嫌なら座らないはずだ」
次々に作品の内面に迫る参加者の発言に驚き、通常のVTSではあまりしない質問ですが、たまらず参加者に問いかけてみました。
「今までの皆さんの意見を総合して、この女性と画家の関係で何か気が付くことはありますか?」
しばらくの沈黙のあと、
「メイドさん?」、「いや、奥さん?」
妻を描いた肖像画とは知らない鑑賞会の参加者は、わずか20分足らずでモデルの素性に迫ってしまいました。
当時、父の仕送りによって慎ましやかな生活をしていたセザンヌは、妻オルタンスとの関係を長年父に隠していたといいます。
セザンヌは67年の生涯に、妻の肖像画を20点ほど残しています。
そして対話型鑑賞の参加者は、その中の1枚からオルタンスの性格や画家との関係を読み解きました。
つまりこの作品の中には、それらの要素が凝縮されていたといえるでしょう。
ポーズや陰影、質感にばかりに目を奪われていた筆者とは対象的です。
中途半端な知識がいかに視点を狭めてしまうかという実例とも言えるかもしれません。
もはや筆者にとって、セザンヌが意図的に遠近法や陰影画法を避けたのか、これらの技法を使えなかったのかは、重要ではなくなりました。
セザンヌとの対話
我々の大脳は、空間的理解や直感をつかさどる右脳、思考・理論などをつかさどる左脳に別かれているそうです。
左右の脳は個別に機能するわけではなく、脳梁によって結ばれ瞬時に情報交換することで、様々な状況に適応しています。
しかし人は、大人になるに従って右脳の能力よりも、左脳寄りの能力を重視するようになっていくようです。
脳の発達の影響、そして、高度に分業化された現代社会がイメージや直感よりも、論理的で豊かな語彙を持つ左脳寄りの能力を求めるためです。
子どもの時には重要だった、右脳の能力はいつの間にか軽視され、やがて「感じる」ことよりも「覚える」ことの方が重要になっていきます。
今回の対話型鑑賞は、作品に関する情報は一切開示せずにスタートしました。
よって、参加者は「セザンヌ作品」ではなく、単に「女性の肖像画」を鑑賞することになります。
先入観のない参加者は、他の参加者の意見を聴きながら、その視点はキャンバスの中へ、そしてアトリエの中で起きている出来事へと移動していきました。
もしも、ファシリテータが先に作家名や作品名、時代などの知識を提供していたならば、参加者は絵を”みる”ことよりも、これらを記憶することに集中していたでしょう。
参加者と筆者はセザンヌ作品とも対話し、さらにセザンヌとオルタンスの対話さえもリアルに思い浮かべることができました。
この対話型鑑賞の参加者は「芸術を学んでいる大人」という、ある意味特殊な人たちですが、予備知識のない鑑賞者にも伝わるチカラを秘めていることこそ、セザンヌが世界中で愛される理由のひとつだと感じた瞬間でした。
おわりに
対話型鑑賞の手法のひとつであるVTSでは「何が描かれていますか?」ではなく「絵の中で何が起こっていますか?」と語りかけます。
前者の質問は鑑賞者の時間軸を、絵を見ている時間、つまり「今現在」に固定し、作品は図像として認識されます。
技法や構図、色彩構成などを学ぶには適した鑑賞法といえます。
一方、後者の質問の時間軸は前後に自由であり、作品の中に時間の流れを作り出します。右脳で受け取った印象は左脳で整理され、ことばとして他の参加者に伝えられます。
シンプルな鑑賞法であるVTSですが、参加者の脳内で起きていることは実に複雑です。
みる、考える、きく、話すという行為が右脳だけでなく、視覚野、左脳の聴覚野、言語野も同時に活性化します。
小学校の教員を対象に行われた図画工作に関する調査2では「図画工作指導に積極的」と回答した教員が45.6%であったのに対し、「鑑賞指導に積極的」という回答はわずか9.5%でした。
鑑賞指導に積極的でない理由について「鑑賞の時数がとれない」、「評定が難しい」といった学校特有の事情の他に、「提示する資料の不足」、「近くに美術館がない」、「機器や設備の不足」など、VTSなら解消できそうな意見も多くみられます。
今年は対話型鑑賞が学校教育に公に導入されて75年目だそうです。
学校教育に限らず、大人でも子どもでも楽しみ、そして学びを得る対話型鑑賞が少しでも多くの方に広まることを願ってやみません。
- 山田五郎 『オトナの教養講座』セザンヌ編 ↩︎