#相互扶助組織 #飢饉 #講 #柳田國男
■要旨
我が国では、農村部、漁村部を中心に、相互扶助を目的とした血縁によらないコミュニティが形成され、現在でも結(ゆい)や催合(もやい)として継承されている地域も多い。結や催合の主な目的は、労働力の提供による扶助であり、集団を形成することで、家族だけでは対応できない、大規模な漁や開拓を可能とし、地域経済の発展に寄与した。
これとは異なった相互扶助の形態が山形県鶴岡市大岩川地区に「ケヤキキョウダイ」として継承されている。
ケヤキキョウダイは、血縁のない女児が義姉妹の契を結び生涯において、助け合うことを約束する。ケヤキキョウダイは、必ずしも労働力の交換を目的とせず、人生のあらゆる場面において生涯にわたって助け合う風習で江戸時代に始まったとされる。
本稿では、大岩川地区にのみ継承される「ケヤキキョウダイ」について、歴史的、地理的背景からその起源を探る。
1.はじめに
山形県の西部、日本海に面する鶴岡市大岩川乙地区(旧温海町浜中集落、以下「浜中集落」という)では、10歳、11歳の女児が、くじ引きで義姉妹の契りを結ぶ「ケヤキキョウダイ」の風習が伝わっている。「ケヤキキョウダイ」は「ケヤク(契約)キョウダイ」が変化したものと伝えられ、江戸期に始まったと考えられている。契りを結んだ姉妹は生涯を通じて、相談相手となり、共に助け合うことを約する。該当する女児がいない年は開催されず、直近では2016年に行われた。
ケヤキキョウダイが開催されると、NHKや地元テレビ局、新聞社など多くのメディアが、風習の珍しさを取り上げ報道する。しかし、その起源については、成女儀礼、安産祈願に由来するという説を紹介しながらも、多くの研究者やメディアが不明としている。
本稿では行事としての「ケヤキキョウダイ」を概観した上で、地理的、歴史的観点からケヤキキョウダイの起源に迫る。
2.ケヤキキョウダイの概要と特徴
浜中集落は、山形県の中核都市である酒田市の南西約50kmに位置する世帯数約70戸の小さな集落である。ケヤキキョウダイの行事は、12月28日に行われる。ケヤキキョウダイに参加できるのは、集落に住む10歳と11歳の女児であり、かつては移住した女児は参加できなかったという。
女児は、集落東側の山間にある大坂神社の境内に集まり、キョウダイの組み合わせを決める稲藁を2つに折ったくじを引く。組合せは神様が決めると信じられ、基本的には、引き直すことはできない。くじは引いた後も手を放さずに、近くの小国川河口まで行き、川に流す。その後神社に戻り、当日は解散する。その3日後の大晦日の夜、あらかじめ決められた民家を宿として、キョウダイが寝具を持って集まる。夕食に丸もちを焼いて食べた後、枕を並べて寝る。翌日の昼まで食べ物を口にすることはできない。行事の一切は子供が取り仕切り、大人は関与しない1。
ケヤキキョウダイの風習は、この浜中集落にのみ確認されており、地形や食文化の似た近隣の小岩川集落にも、このような風習はみられない。
くじ引きは集落の高台にある大坂神社の境内で行われる。しかし、修祓や祝詞奏上などの宗教儀式は行われない。また、集落には曹洞宗龍川寺があり、曹洞宗広報部を通じて同寺院にケヤキキョウダイとの関連を問合せしたが、同寺院とケヤキキョウダイは一切関連はないとの回答があった2。
このように、ケヤキキョウダイは、浜中集落という非常に限られた地域にのみ継承され、宗教儀礼との関連も薄い。
3.地理的特色と時代背景
江戸期、東北地方の日本海陸路は、加賀から能登、越中、越後を経由し、庄内藩の関所である鼠ヶ関を結ぶ北国街道、そして鼠ヶ関から沿岸部を通り、秋田を結ぶ羽州浜街道が主要な幹線であった。
浜中集落は、鼠ヶ関と温泉宿場として賑わった温海宿(現、温海温泉)の中間、やや温海宿寄りに位置する。温海宿が関所からほど近い温泉宿場として賑わう一方、温海村の農民には、当時の公共交通機関として、温海宿と鼠ヶ関を結ぶ「伝馬役」が科せられた。
伝馬役には報酬が与えられたが、断ることができず、村には大きな負担となったとされる3。
江戸期の東北地方は1755年から3年間に渡る宝暦の大飢饉、1783年から7年に及んだ天明の大飢饉など、度々飢饉に襲われ数万人の餓死者がでるほどの惨状を経験している。日本海側の出羽地方は、飢饉を引き起こした要因のひとつであるヤマセの影響が少なかったとされる4が、日本海以外の三方を標高600m程度の山に囲われ面積の87%が山地であり、耕地は4%しかなかった浜中集落においては、度々壊滅的な打撃を受けたと推測される。
4.東北における相互扶助組織の特徴
古代社会では、ムラの成長に伴い、血縁による組織が複数生まれ、やがて効率よく狩猟や採集を行う為に、血縁のない集団による相互扶助関係が発生する。この関係は、近世でも「結(ゆい)」や「催合(もやい)」として全国各地にみられる5。
宝暦年間、東北地方に結や催合とは異なる性質を持つ「契約講」とよばれる組織が発生する。契約講は仙台藩が推奨し、主に東北地方南部、福島県、宮城県全域、山形県米沢地方に広まったとされる。契約講の会合への参加は家長に限定され、途中退席は許されず、欠席には罰則が伴うなど、厳格なルールによって運営された。講の主な目的は、漁や農林業の共同作業、橋や道、水路など共有資産の管理、祭祀の運営など多岐に及ぶ。ただし、「講」といいながら宗教行事はほとんど行われず、年に1回〜2回開かれる会合では、作業の確認と懇親が行われた。
契約講の最大の特色は、下部組織として「若者契約」、更にその下部組織として「子供契約」、「子供組」、女性を対象とした「嫁組」、「主婦組」などが組織されたことである。子供契約や、子供組は、上位組織である若者組や、契約講に加入する為の準備組織であると同時に、親睦や懇親、集落の様々な世話役としても機能した6。
契約講による子供契約や主婦組は、世代別、性別による講があること、宗教儀礼を中心としていないこと、必ずしも労働の提供を目的としたものでないという点で、ケヤキキョウダイとの類似性が認められる。
5.ケヤキキョウダイ起源の推定
1700年代末期の東北地方は、3項で考察したように度重なる飢饉や重税によって深刻な状況であったと考えられる。そのような時代に、仙台藩から相互扶助の概念と、子供契約、嫁組などの下部組織を持つ契約講が伝った場合、困窮する地域は、積極的にこの仕組みを取り入れたであろう。
本調査を開始した当初は、佐藤らと同様に「浜中集落に限ってケヤキキョウダイが発生した」と考えた。しかし、そうではなく、東北地方に広まった契約講が浜中集落にも伝わり、ケヤキキョウダイの原型となった、とは考えられないだろうか。
つまり、多層的な組織を持つ契約講が浜中集落を含む広い地域に伝わり、相互扶助のしくみとして受け入れられる。鼠ヶ関と温海温泉をつなぐ、伝馬役が命ぜられた浜中集落では、長期に渡って食糧、経済的苦難が続き、契約講は生きる手段として定着する。子供の数が少ない浜中集落では、子供契約を複数の子供で構成することはできず、2人を基本とした「キョウダイの契」に変化する。他の地域や集落では、経済や交通の発展、明治維新の「若者組」解体7などの影響を受け、講や子供契約も青年会、婦人会、子供会などに変化し、徐々に姿を消すが、「キョウダイの契」に変化した浜中集落はこの難を逃れた。
また、情報論の観点から言えば、情報は「伝播させる」よりも、「伝播させない」ことの方がはるかに難しい。ケヤキキョウダイは有益なしくみとして、浜中集落に伝承されている。この有益なしくみを、他の集落に伝播させないようにすることは困難であろう。広域に伝播したしくみが、他の地域では姿を消し、独自に変化した浜中集落にだけ残ったと考える方が自然である。
このように考えれば、ケヤキキョウダイの「ケヤキ」とは契約を意味する「ケヤク」が変化したとする一般論と辻褄が合う。また、柳田は青森地方で兄弟分を指す「ケヤク」という方言が契約講の仲間を指す意味から派生したと指摘しており8、契約講が一般に知られるよりも広い地域に浸透していた可能性がある。
6.おわりに
発生に関する考察は可能性のひとつを示すにすぎず、今後も契約講伝播の経過、庄内藩と仙台藩の関係、伝馬役の実態など複数の追加調査と検証が必要だろう。しかし、時代背景や東北地方の相互扶助の考察から、当時の浜中集落の人々の姿がおぼろげながら浮かび上がってくる。
浜中集落では、家族という血縁のコミュニティ、地縁という集落のコミュニティとは別に、世代別の第三のコミュニティを形成することで、人々の繋がりを、より濃密なものとし、飢饉や貧困など、度重なる苦難を乗り越えたのではないだろうか。
伝統行事は戦災や自然災害、後継者や資金の不足などで途切れる可能性はある。しかし、行事として途切れたとしても、行事の意味や熱意が人々の記憶や写真、文書などの記録の中に息づいていれば、再び伝統として息を吹き返すことができるだろう。
浜中集落の人口は、減少の一途であり、継承が危ぶまれるが「記録作成等の措置を講ずべき無形文化財」として選定されたことによって、行事と共に、浜中の人々の生活の歴史も、記録・保存される筈である。
博物館が“モノ”としての資料を収集するのと同じく、伝統行事の研究は“コト”の収集であり、その歴史を後世に継承しなければならない。
<参考文献>