#靖国 #巫女 #口寄せ #恐山
日本における死に対する向き合い方は、その時代や、地域の風習、習慣、信仰などよって様々なかたちがあります。
ここでは、東北地方に多く残る巫女による口寄せと、靖国神社の英霊祭祀の特徴から、死者の弔い方の違いについて考察します。
1.対象と条件
巫女による口寄せは、冥界から故人を現世に呼び出し、巫女に憑依させて故人のことばを聴く儀式であり、約250年の歴史があるとされます[松本:2011]。
口寄せの対象となる故人は個性を持った一個人であり、主に親族や親しい友人などの求めによって行われます。
この口寄せは、故人の死因に関係なく行うことができ、巫女の口から語られるのは、故人の生前の気持ちや、現在の家族への思いなどであり、極めて個人的な祭祀といえそうです。
それに対して、靖国神社に英霊として祀られるのは、1853年以降、明治維新、戊辰の戦争や西南の役、日清戦争、日露戦争、満洲事変、支那事変、大東亜戦争など、国の主導で行われた戦による死者で、その対象は246万6千余柱に及びます1。
つまり、祭祀の対象となるのは、国の為に命を落とした者のみです。
英霊祭祀の対象は死の原因が重要であって、故人の個性は重要ではないようです。
戦没者名簿はありますが、祭祀では個人を特定するような表現はなされず、その対象はあくまで集団です。
靖国神社の英霊祭祀は、国が主導した行動によって命を落とした者への供養、あるいは遺族への反省の印しであり、国家の反省の上に成り立っている行事と言いえそうです。
川村は、靖国神社における英霊祭祀を、「帝国主義の国民国家を”死の共同体”として構築し、個人の死を国家的な死へと聖化させて、国民の主体化=自己犠牲を推進させた」として、その態度を批判しています[川村:2013]。
つまり、国家の意思をまるで神の啓示のように思わせ、国民の自己犠牲を促したというのです。
沖縄戦の戦没者を遺族の合意なく靖国に合祀していることに反発した遺族が、合祀を取りやめるよう国と靖国神社を相手取って提訴した沖縄靖国合祀訴訟では、2012年6月最高裁が上告を棄却する決定を行い、遺族の敗訴が確定しました2。
上告した遺族の思いは川村と同様、”死の共同体”への反発ではないでしょうか。
2.沖縄戦
沖縄県豊見城市にある、旧海軍司令壕は、県内にいくつか残される戦争遺産です。
太平洋戦争末期の1945年3月、米軍は慶良間への上陸を皮切りに、県中部を制圧し徐々に南下します。
6月ついに旧海軍司令基地が置かれた県南部、豊海城市に達します。
敗戦を覚悟した海軍司令中将、大田 實(みのる)は海軍次官に向け、司令基地である地下壕から以下の電文を発信し壕内で自決しました。
《原文》(■は判読できず)
発 沖縄根拠地隊司令官
宛 海軍次官062016番電
左ノ電■■次官ニ御通報方取計(とりはからい)ヲ得度(えたし)
沖縄県民ノ実情ニ関シテハ県知事ヨリ報告セラルベキモ 県ニハ既ニ通信力ナク 三二軍司令部又通信ノ余力ナシト認メラルルニ付 本職県知事ノ依頼ヲ受ケタルニ非(あら)ザレドモ 現状ヲ看過スルニ忍ビズ 之(これ)ニ代ツテ緊急御通知申上グ沖縄島ニ敵攻略ヲ開始以来 陸海軍方面 防衛戦闘ニ専念シ 県民ニ関シテハ 殆(ほとん)ド 顧(かえり)ミルニ 暇(いとま)ナカリキ
然(しか)レドモ本職ノ知レル範囲ニ於(おい)テハ 県民ハ青壮年ノ全部ヲ防衛召集ニ捧ゲ 残ル老幼婦女子ノミガ相次グ砲爆撃ニ家屋ト家財ノ全部ヲ焼却セラレ 僅(わずか)ニ身ヲ以テ軍ノ作戦ニ差支(さしつかえ)ナキ場所ノ小防空壕ニ避難 尚砲爆撃下■■■風雨ニ曝(さら)サレツツ 乏シキ生活ニ甘ンジアリタリ
而(しか)モ若キ婦人ハ率先軍ニ身ヲ捧ゲ 看護婦烹炊(ほうすい)婦ハモトヨリ 砲弾運ビ 挺身(ていしん)斬込隊スラ申出ルモノアリ所詮(しょせん) 敵来リナバ老人子供ハ殺サレルベク 婦女子ハ後方ニ運ビ去ラレテ毒牙ニ供セラルベシトテ 親子生別レ 娘ヲ軍衛門ニ捨ツル親アリ
看護婦ニ至リテハ軍移動ニ際シ 衛生兵既ニ出発シ身寄リ無キ重傷者ヲ助ケテ■■ 真面目ニテ一時ノ感情ニ駆ラレタルモノトハ思ハレズ
更ニ軍ニ於テ作戦ノ大転換アルヤ 自給自足 夜ノ中ニ遥ニ遠隔地方ノ住居地区ヲ指定セラレ輸送力皆無ノ者 黙々トシテ雨中ヲ移動スルアリ 之ヲ要スルニ陸海軍沖縄ニ進駐以来 終止一貫
勤労奉仕 物資節約ヲ強要セラレツツ(一部ハ■■ノ悪評ナキニシモアラザルモ)只管(ひたすら)日本人トシテノ御奉公ノ護ヲ胸ニ抱キツツ 遂ニ■■■■与ヘ■コトナクシテ 本戦闘ノ末期ト沖縄島ハ実情形■■■■■■
一木一草焦土ト化セン 糧食六月一杯ヲ支フルノミナリト謂(い)フ 沖縄県民斯(か)ク戦ヘリ県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ 賜ランコトヲ
旧海軍司令部壕ウェブサイトより
《現代語訳》
昭和20年6月6日 20時16分
次の電文を海軍次官にお知らせ下さるよう取り計らってください。
沖縄県民の実情に関しては、県知事より報告されるべきでありますが、県にはすでに通信する力はなく、32軍(沖縄守備軍)司令部もまた通信する力がないと認められますので、私は、県知事に頼まれた訳ではありませんが、現状をそのまま見過ごすことができず、代わって緊急にお知らせいたします。
沖縄に敵の攻撃が始って以来、陸海軍とも防衛のための戦闘に専念し、県民に関しては、ほとんどかえりみる余裕もありませんでした。
しかし、私の知っている範囲では、県民は青年も壮年も全部を防衛のためかりだされ、残った老人、子供、女性のみが、相次ぐ砲爆撃で家や財産を焼かれ、わずかに体一つで、軍の作戦の支障にならない場所で小さな防空壕に避難したり、砲爆撃の下でさまよい、雨風にさらされる貧しい生活に甘んじてきました。しかも、若い女性は進んで軍に身をささげ、看護婦、炊飯婦はもとより、防弾運びや切り込み隊への参加を申し出る者さえもいます。
敵がやってくれば、老人や子供は殺され、女性は後方に運び去られて暴行されてしまうからと、親子が行き別れになるのを覚悟で、娘を軍に預ける親もいます。
看護婦にいたっては、軍の移動に際し、衛生兵がすでに出発してしまい、身寄りのない重傷者を助けて共にさまよい歩いています。このような行動は一時の感情にかられてのこととは思えません。
さらに、軍において作戦の大きな変更があって、遠く離れた住民地区を指定された時、輸送力のない者は、夜中に自給自足で雨の中を黙々と移動しています。
これをまとめると、陸海軍が沖縄にやってきて以来、県民は最初から最後まで勤労奉仕や物資の節約をしいられ、ご奉公をするのだという一念を胸に抱きながら、ついに(不 明)報われることもなく、この戦闘の最期を迎えてしまいました。
沖縄の実績は言葉では形容のしようもありません。
一本の木、一本の草さえすべてが 焼けてしまい、食べ物も6月一杯を支えるだけということです。
沖縄県民はこのように戦いました。
県民に対して後世特別のご配慮をして下さいますように。
旧海軍司令部壕ウェブサイトより
この電文は、「県民への感謝の現れ」として評価する見方がある一方で、
「戦争を美化している」、「国は加害者であり県民をかわいそうな被害者に仕立て上げている」
いった批判もあります。
3.時間の流れ
口寄せは、独特の時間の概念を持っています。
一周忌を過ぎた故人の口寄せは、「古口」とよばれ、未婚のまま死去した故人の口寄せは「ハナ寄せ」または「ナナクラ寄せ」と呼ばれます。
未婚の死者は、現世に想いを残したまま死去したと考えられ、故人の想いが祟となって残された家族に災いを及ぼさないよう、故人の霊を鎮める意味があるといいます[川村:2013]。
また、松田は、遺族が口寄せで故人と対面し、生前の浮気を問い詰めたり、結婚式の立会を求めたりするユーモラスな例を紹介しています[松田:2013]。
口寄せは単なる供養ではなく、故人が生きているかのごとく接し、故人と対話する祭祀です。
東北地方の冬は厳しく、暖房設備の十分でない時代において平均寿命は著しく短かったことでしょう。
かつて、北東北の方の誕生日は春から夏に集中していました。
秋から、冬に生まれた赤ちゃんは厳しい冬を乗り越えることができなかったためです。
東北地方の方は、身近な人の死に対し、死者といずれ冥界で再会できる、と信じることで、死を受容してきたのかもしれません。
一方、靖国神社の英霊祭祀は、対象が集団である為、時間の流れに個人差はありません。
死者の時間は戦という非常に大きな単位にまとめられ、戦争の終結と同時に停止します。
英霊となった時期を示すのは、何年、何月、何日ではなく、「◯◯戦争」で十分です。
「いつ、どこで亡くなったか」は重要ではなく「どの戦で命を落としたか」が重視されます。
4.おわりに
口寄せと英霊祭祀では、死者の弔いのあり方に大きな違いがあります。
まず、口寄せの中心にあるのは一個人であり、家族や遺族が故人と向き合う供養といえます。
一方、靖国神社の英霊祭祀は、戦争や戦による死を集団として扱い、国家が慰霊の為に行うもので、そこに故人の個性は存在しません。
また、口寄せでは、冥界に時間の概念があり、故人とのやりとりを通じて、過去や未来を行き来することができますが、靖国神社の英霊祭祀は、戦という固定された時間が祭祀の対象になっています。
そして、沖縄靖国合祀訴訟にみるように、必ずしも遺族の意向に沿ったものではないようです。
弔いの方法は多種多様ですが、それぞれの特徴や背景を十分に理解した上でそれぞれの弔いと向き合う必要がありそうです。
<註記>
- 靖国神社 ホームページ
http://www.yasukuni.or.jp/history/detail.html ↩︎ - 日本経済新聞 ホームページ
https://www.nikkei.com/article/DGXNASDG1503P_V10C12A6CC1000/ ↩︎
<参考文献・ウェブサイト>
・松田広子 『最後のイタコ』 2013年 扶桑社
・川村邦光 『弔い論』 2013年 青弓社
・柳田國男 『先祖の話』 2014年 KADOKAWA
・旧海軍司令部壕ウェブサイト https://kaigungou.ocvb.or.jp/