日本の近代美術教育史年表

タイトル行の▲▼をクリックすると並び替えができます。

スマホで見れなくもないですが、PCでの閲覧をおすすめします。

西暦和暦国際国内教育出来事詳細キーワード
1780年頃ヨハン・ハインリヒ・ペスタロッチ教育実践家・思想家(スイス)1746年〜1827年
民衆の子どものための学校をつくるなど、初等教育の重要性を指摘。
・進歩主義
1810年頃フリードリヒ・フレーベル教育者(ドイツ)1782年〜1852年
ペスタロッチに学び、初の幼稚園を設立する。
1857年安政4年藩書取調所 画学局川上冬涯が局長となって図画の教育を開始
1866年慶応2年福沢諭吉『西洋事情』出版初めて「博物館」という用語が用いられたのは、1860年のアメリカ使節団一行と考えられる。1862年の幕府によるヨーロッパ視察でも「博物館」の呼称が用いられる。福沢はこの使節団に参加し、後の1866年に『西洋事情』の中で博物館を紹介した。ただし、鉱物や医学動物学など自然科学系博物館を指し、美術や歴史など人文科学系博物館は含まれていない。
1867年慶応3年パリ万博に出展日本が初めて参加した国際博覧会。江戸幕府に加え、薩摩藩、佐賀藩が出展した。佐賀藩士として参加した佐野常民は後にウィーン万国博覧会事務局副総裁に着任する。
1871年明治4年文部省に「博物局」設置
『西画指南』発行
1871年から73年にかけて岩倉具視が率い、大久保利通ら明治政府要人が参加する使節団をアメリカ、ヨーロッパに送る。
文部省が教科書としての『西画指南』を発行する。
・富国強兵
・殖産振興
1872年明治5年本格的に図画教育を開始
文部省が『鉛筆画手本』を発行。
和漢の画よりも、西洋画の投影画法や遠近法の方が理にかなっていると解された。教員が黒板に書いた手本をひたすら模写する教育。
1872年明治5年湯島聖堂博覧会同年、文部省博物局が発足。湯島聖堂大成殿内にて国内初の博覧会が開催され、博覧会の一部資料を定期的に公開する建物として設置される。
1873年明治6年ウィーン万国博覧会に出展日本国として初の出展。「芸術」を参考に「美術」という単語が初めて使われた。
1873年明治6年「山下門内博物館」開設湯島聖堂博物館が内山下町(現在の千代田区内幸町、日比谷公園付近)に移転し「山下門内博物館」と改称。
1875年明治8年「文部省博物館」が「東京博物館」に改称
1876年明治9年工部美術学校開校官立の工部大学校(現在の東大工学部)の付属として開校する。
1876年明治9年工作教育東京女子師範学校付属幼稚園にて、フレーベルの恩物教育を実践
1877年明治10年第一回 内国勧業博覧会開催スローガンは富国強兵と殖産興業の推進。鉱業・冶金術、製造物、美術、機械、農業、園芸の6部門。中央に建設されたのが「美術館」。現在の東博の一部。高橋由一の『鮭』が出展。
1877年明治10年「東京博物館」が「教育博物館」に改称現東京藝術大学の位置に新築
1879年明治12年「竜池会」結成佐野常民(政治家、日本赤十字社の創立者)、九鬼隆一(貴族院政治家)らウィーン万博の指揮にあたった官僚と輸出業者を中心に結成された美術団体。会名は、初回会合を上野不忍池畔の天龍耶麻生地院で行ったことにに由来する。1887年に日本美術協会と改称。(東京美術学校創立前史p.22)
1881年明治14年第二回 内国勧業博覧会開催美術部門の審査は竜池会が牛耳る。洋画が排斥され日本画がその中心となる。
1881年明治14年「教育博物館」を「東京教育博物館」に改称
1883年明治16年「工部美術学校」廃校
1886年明治19年フェノロサ、岡倉天心が欧米視察東京美術学校の設立を準備。
1889年明治22年「東京美術学校」開校日本画を中心とした伝統美術が重んじられる。・洋画排斥
1889年明治22年大日本帝国憲法発布皇室が日本国と日本人のアイデンティティを保証する存在と法的に定められる。
1889年明治22年「帝国博物館」開設教育博物館から分化する。美術部長に岡倉天心が就任。内務省(勧業と治安を主管)系博物館として独立
1894年明治27年日清戦争勃発
1896年明治29年東京美術学校に西洋画科と図案科が開設
1890年明治23年『教育勅語』発布儒教の色彩が濃い皇国教育
鉛筆画=洋画VS毛筆画=日本画の対立
1899年ジョン・デューイ哲学者 アメリカ 1859-1952
『学校と社会』出版
・新教育運動
・児童中心主義
1900年エレン・ケイ社会思想家・教育学者・女性運動家(スウェーデン)1849-1926
『児童の世紀』で子どもの自発性の尊重を説いた。
1900年頃フランツ・チゼックオーストリア Franz Cizek(1865‐1946)
美術教育においては、子どもと教師は協力者であり、子どもの自発性と個性を尊重した。
1900年明治33年「帝国博物館」が「東京帝室博物館」に改称
1904年明治37年日露戦争勃発朝鮮半島の領有権を日本とロシアが争い翌1905年ポーツマス条約締結によって終結
1906年明治39年「関西美術院」設立東京美術学校 西洋画科内で、黒田清輝と浅井忠の闘争が発生。黒田が残り、浅井は京都に関西美術院を設立する。
1907年明治40年文部省美術展覧会西洋画と日本画のみが対象となり、書と工芸は排除された。
「文展」⇒「帝展」⇒「新文展」⇒「日展」で現在に至る。
1910年明治43年『新定画帖』発行「正シク画クノ能ヲ得シムルコト美感ヲ養フコト」正しく描く練習とされた。基となった『Text books of Art Education』が子どもが読むことを前提にしているのに対し、新定画帖は、教員が読むことを前提にしている。
学齢によって、道具や模写、写生など段階的な教育手順が示された。
1918年大正7年「自由画教育運動」山本鼎(かなえ)による教育運動。欧州、ロシアの農民芸術を学び帰国後、日本の臨画(手本を写す)教育に憤慨し、臨画の廃絶と臨物(実物を見て描く)ことの重要性を主張した。・「自由画」教育
1918年大正7年『赤い鳥』創刊鈴木三重吉による児童雑誌。文部省主導の唱歌、修身、通俗小説を否定し「子どもの純正を保全開発する」を理想とした。・ロマン主義の影響を受けた「生活画」
1919年「バウハウス」設立ドイツ ワイマール
1921年大正10年『芸術自由教育』創刊山本鼎、北原白秋らが編集委員。母体となった「日本自由教育協会」には、教師、画家、詩人、音楽家、評論家、農民も含まれた。[大野:p114]
1921年大正10年「東京教育博物館」から「東京博物館」に改称
1922年大正11年『コドモノクニ』創刊児童文学
1923年大正12年関東大震災震災から3日、延焼により「東京博物館」の標本と施設のすべてを焼失する。
1931年昭和6年「東京博物館」から「東京科学博物館」に改称
1942年昭和16年太平洋戦争開戦
1943年ハーバート・リード
『芸術による教育』出版
ハーバート・エドワード・リード(Sir Herbert Edward Read、1893- 1968)
芸術をすべての教育の根幹に据えるべきと主張。
1949年昭和24年「国立科学博物館」に改組
1945年昭和20年太平洋戦争終戦GHP民間情報教育局(CIE)が学校教育を統括する
1951年昭和26年「日本宣伝美術協会」設立略称:JAAC
原 弘、山名文夫、新井静一郎、亀倉雄策、河野鷹思ら約50名によってスタート
広告デザイン
1952年昭和27年「東京帝室博物館」が「東京国立博物館」に改称
1952年昭和27年「創造主義美術教育(創美)」運動が起こる。
同年、「創造美術協会」設立
久保田貞次郎、北川民次らが参加
「児童の創造力をのばすことは児童の個性を鍛える。児童の個性の伸長こそ新しい教育の目標」を掲げる。
・抑圧からの開放
・児童画ブーム
1953年頃昭和28年「新しい絵の会」創美を「感覚至上主義の美術教育」であるとして批判
1954年昭和29年バウハウス初代校長ヴァルター・グロビウス来日
1954年昭和29年「桑沢デザイン研究所」設立所長 桑澤洋子
1955年昭和30年「造形教育センター」設立バウハウスの影響を受け、主にデザイン、工作領域を取り込んだ総合的な造形教育の研究団体
1964年昭和39年東京オリンピック開催亀倉雄策がシンボルマークと4枚の公式ポスターをデザイン。スタートラインのポスターは1966年のポーランド国際ポスタービエンナーレで芸術特別賞を受賞高度成長期の象徴
1966年昭和41年「東京造形大学」開校初代校長 桑澤洋子
1970年昭和45年大阪万国博覧会開催
※日本の美術教育、芸術教育の動向に関する年表

©ARTS FOREST COPYRIGHT 2021, ALL RIGHTS RESERVED